祖父が倒れた時、私がちょうど大学院の合格発表を受けた頃であった。当時、東アジア、とりわけ中国・台湾の歴史をやりたかった私は担当となる教員に挨拶をした。
「無事、合格しました」
「じゃあ、来年からよろしくね」
ただ、大学院を入るころには既に学者は無理かもしれないという諦観があった。私には、社会的意義や研究目的を見出すことができず、知識も偏っていた。そのため、教授陣との口頭試問の時に、学術的アウトプットには向いていないと自覚させられた。
だが、家族や親戚、特に大学院進学を決めた時に一番喜んでくれた祖父に、中々それを言い出せずにいた。
祖父は大学院合格を電話越しに喜んでいた。
そして、それから数日後に京都の自宅で倒れた。
祖父が倒れたと聞いたとき、「すぐに退院できるだろう」と考えていた。私は、あまり慌てず、騒がずの楽観主義者であった。
父が祖父の様子を見に行くために、急ぎ帰省した。当時はようやくスマホが普及した頃であり、連絡用アプリケーションを使って連絡を受けた。
話を聞いた分には、無事であるようだった。
だからか、誰もこれから三年間の闘病生活が始まるとは思っていなかった。
病院に運ばれた祖父はそこで手術を受けた。一命はとりとめたものの、半身が動かなくなり、カテーテルを入れられた。親戚が見舞いに行き、私も三年の京都帰省の際、四度、祖父と会った。一度目の祖父との対面では、大学院入学してしばらく経過した頃であった。
叔母の話によれば、無反応であった祖父が私の大学院進学の話を聞いて口を開いたのは久々の事だったという。
「がんばりや」
「おめでとう」
どちらかは口にしていたように見えた。しかし、思うように声が出ないようで、ヒューという音だけが聞こえた。

その間に祖母が亡くなり、叔父叔母夫婦が飼っていた愛犬も後を追うように死んでしまった。残るはいよいよ祖父だけとなっていた。
祖母が亡くなったのは、祖父が倒れた二年後であった。
当時、父は失職の危機に瀕していた。父からすれば、二正面の不幸である。失職の危機と母親の喪失を同時に経験したのだから。
父は震える声で喪主の挨拶を終えると、叔母夫婦と母に諸々の処理を任せた。葬儀には父の恩人と仕事仲間たちが参列した。
この間、祖父は入院中であり、容態も悪化の一途であった。そのため、負担がかかるとよくないため、祖母の訃報は親族だけの秘密となった。
しかし、その祖父も、祖母が亡くなって一年と一か月後に後を追うようにして亡くなった。祖母の時とは異なり、慌ただしいこともなく、非常に穏やかな葬儀であった。同年三月には祖父が所属していた日本考古学会に訃報の知らせが伝わり、哀悼の意が示された。
新型コロナウイルス感染症が拡大したのはそれから間もなくであった。
祖父の遺品は膨大な書籍と歴史資料であった。これを処分するのはかなりの労力が必要だった。しかし、外出自粛要請が出て、新型コロナウイルスが拡大し、京都にある祖父の自宅や熊本の実家に行くことができなくなった。父は仕事の関係もあったため、行くことができたが、自覚症状がないかもしれない私は叔母夫婦や従兄家族(ましてや子どももいるため)に感染させるわけにもいかず、帰省することができなかった。
その内、両親が感染して自宅療養となった。その間、私には特に症状もなかったため、やはり自覚症状がないのだろうと考えていた。
その後、メニエール病や痛風などに半年間悩まされたりもしたため、京都はますます遠のいた。
そしてようやく重い腰が上がったのが2025年の3月のことであった。
私は、祖父の自宅。その地下にある膨大な資料の山を見てため息を漏らした。これを片付けるのはかなり骨が折れる。
古物商許可証を取って、古本屋を開くことにしていたため、祖父の本を千冊ほどもらうことにした。しかし、カビやら、やけやらがあるため、売ったとしてもそれほどの値段にはならないだろうとも思っている。
祖父の書架から、奇妙な一冊のノートが見つかった。他のノートは大学ノートであるが、そのノートは装丁がしっかりしている。そこには祖父の名前の後に「●●史」と書かれていた。本を開くとそれは、祖父が倒れて入院するまでに書かれていた自分史であった。
そこには私の家のルーツが全て記されていたのだ。
前々から、かなり古めかしい家であるとは思っていたが、まさか祖父の方が分家であり、熊本の実家の本家は城下町の商人の出で、「創業250年」にもなっていたようだった。祖父は財産放棄したため、その店を継ぐことはなかったし、横溝正史のようなドロドロの争いに発展したこともなかったらしい。
終活ガイドの勉強しているとき知ったのは、犬神家や田治見家のような遺産争いはむしろ稀で、「1000万円以下の家」にトラブルが頻発するらしい。その点、店を継ぐだけで資産はなかったそうなので、祖父の場合はこれ幸いと京都に来たそうだった。しかし、大学生の頃からかなりひもじい極貧生活であったらしい。
ただ、これは小説のネタになるなと、今執筆中である。
とにもかくにも、祖父の自分史によって私のルーツを知れたことは僥倖であった。
次のページでは、我が家のルーツについて記していきたいと思う。
