あくまでも雑書きです。解釈も何もかも間違えているかもしれません。
しかし、アサクリシャドウズの問題が表現を締め付けかねない批判も混ざるようになっているので改めて整理した方が良いなと思います。
アサクリシャドウズの三つの問題
まず、アサクリシャドウズの問題の大半が以下の通りのことだと思います。
①過剰宣伝・誇大広告:「歴史に語り継がれる屈強なアフリカ人侍」という歴史的にデリケートな問題を「史実」と誤認する可能性が高い広告を出したこと。
②著作権侵害と説明責任:コンセプトアート等にAIで生成されたイラストが存在すること。そしてその当該イラストが指摘されているにもかかわらず、内的な謝罪にとどまり、カスタマーに公式に謝罪しなかったこと。
③透けて見えるDEI違反:「”私たち(フランス人)”の視点」で日本史を見られるキャラとして、日本人ではなく、わざわざアフリカ人を「侍」として登場させること。「アジア人」の透明化問題や「日本文化」ではなく「アジア文化」というステレオタイプ
この三つだけです。そして大半がマーケティング戦略の失敗であり、社内コンプライアンスの欠如であるといえます。
とりわけ、私が問題だと思うのは「著作権侵害」です。一企業が、AI生成を業務上の補助的なツールとして利用するのはやぶさかではありません。しかし、AIは、写真・イラストなどをそのままの状態で生成物に掲載してしまう可能性もあるため、より慎重な運用が求められます。

AI生成物をコンセプトアートとして「販売」するなど言語道断といえるでしょう。特にこれはUBIの問題ではなく、ゲーム業界全体の問題です。効率化を重視するあまり、外部に発注せずAI生成で済ませてしまうゲーム企業はどうやらあるようです。こんな噂があるだけでも、イラストレーターやアーティストの起用を阻害する懸念が出てきている可能性がありますね。個人的には、ネット有志は他のゲームの販売されているコンセプトアートや設定資料集も確認した方が良いのではないかと思います。
問題は、著作権侵害が存在したにも関わらず、本社の対応が遅れたことです。昨年の6月に徐々に発覚していき、7月下旬まではAI生成物のコンセプトアートをそのまま販売しようとしていたことからも、以下にUBI法務やコンプライアンスが機能していなかったかがわかります。
「初期対応の失敗」、これに尽きます。
アサクリシャドウズがここまで執拗に燃え続けるのは、こうした法的・コンプライアンス的に非常に深刻な違反があったにもかかわらず、それを内々に処理しようとしたUBI本社の不誠実さが原因であると思います。
むしろ市場に応えたアフリカ人起用はDEI違反ではないか?
DEI違反?と思われる方もいるかもしれません。誰も指摘していませんが、皆さんの怒りの背景には「Diversity(ダイバーシティ)」「Equity(エクイティ)」「Inclusion(インクルージョン)」を掲げているUBIが、日本を舞台にしたゲームで「日本人男性」を出さなかったことやミャンマーの遺物を日本の寺院描写に使ってしまうなど、これに尽きるのではないか?と思います。
日本予告で中国語字幕を出してしまう、日本寺院の中にミャンマーやカンボジアの寺院があるなどは日本だけではなく、その他の国々に対しても深刻なステレオタイプです。
昔、ハリウッドで、学生が社会調査をしている最中に中国語で説明を受けたことがあります。「自分は日本人なので、中国語は話せないから英語で頼む」と何度も説明しても、中国語でアンケートを取ろうとしてきました。「私は日本人で、日本語か、英語しか話せない。中国語は勉強もしていないから無理だ」と何度か説明しても、学生は意図を理解できていませんでした。自分たちが何をしているのかをまったく理解できていないわけです。リーダーの学生が話を聞いてくれてようやく「日本人と中国人の違い」をわかってもらえました。
ここで私が悟ったのはアメリカを含めヨーロッパでは中国人だろうが、日本人だろうが、タイ、ベトナム、フィリピンであろうが全て「アジア全般」であるということです。日本の常用漢字、中国の漢字文化、韓国のハングルなど知ったことではないと言わんばかりのフレーミングです。
特に背旗の問題もそうですが、各所にアジア諸国の文化遺産や建造物、あるいは戦争遺物なども混入していたことからも、「日本」や「中国」「タイ」「カンボジア」などの独自の、奥妙な文化を築いてきた国々を全て一緒くたに「日本の戦国時代」に落とし込むということは、それだけでDEIからは程遠い行為であるようにも思います。右の人たちは「文化戦争」と言っていますが、私からすれば「アジアは全部同じ」というステレオタイプ的な認知の問題であり、「深刻なDEI違反」ではないかと感じるわけです。
UBIはこれをしたのかなと思います。つまり、日本だろうが、ミャンマーだろうが、アジア全般、そこに文化的な差異はない、と。こういう認識を平気でしてしまうわけです。これでは多様性もなければ、公平性もないでしょう。彼らは差異を認めず、日本という国を公平に見ていなかったのかもしれません。
そして、そこにたまたま「弥助」。
つまり、日本文化における個を尊重せず、アジア全般という漠然とした雑多に収束させた表現に対する不満が弥助と結びついて、爆発炎上したのではないでしょうか。「日本人男性を透明化している!」と一部界隈は主張しています。確かに、過去のアサクリシリーズを考えれば実際にこれは非常に深刻な多様性と公平性の欠如です。

欧米では「アジア人男性は市場価値がない」と認識されるほどです。アジア人女性は小さくてロリっぽくて魅力的、でもアジア人男性は別にイケメンでもなければ、オタクっぽいという誹りを免れません。
そしてUBIは意図してか、無意識なのかは不明ですが「市場に応える」形で弥助を登場させました。
エキゾチックで頼もしい筋肉モリモリマッチョマンのアフリカ人。これほど夢のような男は他にいません。そんなマッチョがヒョロガリ日本人を殴殺する、斬首する。かっこいい!
こういうわけです。
個人的には、この企画意図自体が「DEIに著しく反してないか?」と思うわけです。本来DEIの中で、ダイバーシティの推進というものは、そういったステレオタイプなビジネスや市場の意識を改革することが目標であったはずです。しかし、弥助起用はむしろ「多様性は、ハマに捨てました」といわんばかりの様相を呈しています。つまりDEIと矛盾するわけです。私としてはDEIが芸術を殺すというよりは、DEI推進企業がこんなDEIに違反するような作品を作ったことの方が芸術的だなと思います。
DEIなどを声高らかに発信せず、何も宣言していない無の状態のUBIが「アジア人、魅力ないからすまねえ、弥助を起用する!」と言ってめちゃくちゃイケメンの弥助出していたら普通に人気出たと思います。
つまりDEIという枷を自らではめておいて、なぜかその枷を思いきり引きちぎろうとしているんです。
創作物で嫌悪される法則「メアリ・スー」
そもそもゴリラ並みの高身長で筋力もある弥助がヒョロガリ日本侍を切り捨てる、あまつさえトドメをさすときは毎回首を切り落とす(これも間違ってるんですが)、一般通過日本人が彼を見るたびにお辞儀をするのは、印象的にどうでしょうか?
これ自体はゲームだからと割り切ることは可能ですが、当初のコンセプトでは日本人男性と女性が主人公になるはずだったという開発秘話のようなものが出回っているところを考えると、何か胸につかえるものを感じざるを得ません。「私たちの視点で」というのも市場の大手はヨーロッパであることから、弥助を出すのは妥当だったかもしれません。しかし、それは日本を舞台にしたのではなく、日本の舞台を西洋化するという試みです。
恐らくこの描写にある種の嫌悪感を感じる人の多くは「なろう系」や「主人公最強系」の作品をあまり受け付けないのではないでしょうか?
あるいは「なろう系」が好きであっても、見ている分には良いのですが、それを実際に体験するのとでは印象が違って見えてくる場合もあるのではないでしょうか?
実際、アサクリシャドウズの弥助には「俺TUEEE」のような描写が盛り込まれている節があります。大体、弥助が出ているならほぼ負ける気がしないんですよね。
そのため、アサクリの弥助は「メアリ・スー」化しているきらいがあります。昨年度の炎上初期に指摘している人がちらほらおりましたが、私もアサクリシャドウズの炎上がなぜここまで止まないかといえば弥助が「メアリ・スー」化しているからだと考えています。
鳥取トム氏の話はもはや説明するまでもないですが、彼の作品は親日家らしい律儀な「日本上げ」以上に「超絶な弥助上げ」がすごいです。「日本人は弥助を神や仏のように尊敬していた!」という誇張をしてしまうのはある種、このご時世に於けるアフリカ人へのリスペクトと日本人がDEI超大国だったかのように描く方法としては最適でした。普通に、歴史ロマンを語りたい人は推しの武将を過剰に描いてしまう傾向がありますし、私の源氏推しもそういうきらいがあります。
鳥取トム氏は弥助推しとして著述する傍ら、徐々に「弥助のメアリ・スー化を進展させていた」のでしょう。これ自体は特に問題ないと思われます。
弥助は徐々にヒロイックアイコンとして人気が出ます。鳥取トム氏がブームに乗っかったのか、それともブームがトム氏によって引き起こされたのかは、未だに判然としません。しかし、マーベルヒーローと同じく弥助は西洋の英雄となりました。
ここまでなら良かったんですね。
ただ、「弥助が侍かどうか」の歴史論争よりも「弥助を侍にしてしまったこと」の方が物語としては深刻だったのではないでしょうか。
ジャンプの三原則に「友情」・「努力」・「勝利」というものがありますが、創作物の世界における主人公や周囲のキャラクターはまさしくこの原則にあてはまると好意的に見られます。この三原則が重要視されるのは、この展開が一番「カタルシス」を得られるからです。
例えば、アフリカ人奴隷を主人公にすると言った場合、物語や予告編の導入で最も最適なのは白人の奴隷商人に尊厳をめちゃくちゃにされるアフリカ人奴隷という構図です。しかしその中でも、愛する人がいたり、白人やアジア人、他の奴隷たちとの友情や絆もあります。そして奴隷は成り上がるために努力します。剣をもち、銃を持ち、圧政者たちに立ち向かうための準備をします。それは天性の才能かもしれませんが、その才能を開花させるために血のにじむような努力が必要になります。そしてそれを超えて、ようやく敵と対峙し、勝利をつかむわけです。
カタルシスを得られます。
このほかにも「成り上がりの法則」というものもあります。最初、主人公はどん底の位置にいて、そこから這い上がり最終的に勝利をつかむというものです。「盾の勇者の成り上がり」が特に顕著です。
アフリカ人奴隷を主人公にした映画の場合クエンティン・タランティーノ映画の「ジャンゴ」は全ての法則にあてはまりますし、「それでも夜はあける」も努力と勝利のたまものといえます。「アミスタッド」も名作でしょう。
さて、弥助の場合はどうでしょうか?
作中における弥助は信長の帯同であり、侍になっています。つまり弥助は物語上、「奴隷から成り上がり、すでに成功した人間」です。多くの人々にとって、この部分が引っかかるのではないでしょうか。つまり、弥助はすでに「主人公」ではなく、「最終回を迎えたレベルマックスの主人公」というわけです。プレイヤーが彼をプレイして、カタルシスを得られるでしょうか?
「奈緒江」は天正伊賀の乱で家族を失いますが、弥助はラスボス級の主君を失ったエリートにすぎません。現にゲーム上では奈緒江以上に、弥助はエリートとしての権力を発揮します(道行く人にお辞儀をしてもらう、激ショボ侍を斬首できるなど)。つまり、女性であり親を亡くした奈緒江とラスボス級の人間に認められた没落エリートの弥助ならば、感情移入できるのは奈緒江の方ではないでしょうか?
つまり、プレイアブルキャラとして「弥助」を扱う動機づけが「奈緒江」よりもしっくりこないのです。ポリコレとか、アジア人透明化以前に、物語構成上、弥助の主人公としての魅力があるのかがわからないのです。
エリート・弥助という設定そのものが「メアリ・スー」化を招いてしまった原因であるように思えます。